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志半ば 病に倒れた男

地元の方なら遠足で一度は訪れたはずの江川邸と韮山反射炉。御存じの方は多いと思いますが、この韮山反射炉を築いた男を紹介したいと思います。
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江川英龍(えがわひでたつ)1801~1855
欧米の列強がアジア各地を植民地化した幕末時代、蘭学を学び、外国の社会事情や国際情勢を知り日本の状況を深く憂慮し、沿岸防備の為の砲台、農兵訓練、保存食用パン製造等に力を注いだ代官です。
1840年、イギリスと清の間でアヘン戦争勃発し、日本は列強諸国に対抗する為の軍事力強化が大きな課題となっていました。
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1849年 英艦マリナー号が下田入港。下田奉行による退去交渉が難航した為、幕府は英龍に交渉を命じたのです。
普段は質素実用を旨とする英龍でしたが、この時は日本橋越後屋であつらえた蜀江錦の野袴に陣羽織という絢爛たるいでたちで交渉に臨んだのです。
その姿を見たマリナー号艦長は交渉に応じ、英龍の堂々たる態度や明敏な口上に感銘を受け、すぐさま退去することに同意したと伝えられています。
1853年ペリー艦隊の来航を受け、幕府は海防対策を決断。以前より幕府に海防対策を進言していた英龍を責任者とし、大砲を鋳造する為の反射炉と品川台場の築造が決定しました。
当初反射炉は下田港に近い本郷村に造る予定で準備を進めましたが1854年、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が工事中の反射炉敷地内に侵入する事件が起こり、急遽韮山の地へ築造変更する事となったのです。
その後、たび重なる過労により英龍は反射炉の完成を見ることなく1855年に他界。
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英龍の秘書的存在であった柏木総蔵が英龍の息子、英敏を補佐し1857年反射炉は完成しました。
反射炉では隣接する豊富な川の流れを利用し水車を廻し砲身の削り出し作業もおこなったそうです。
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柏木総蔵は明治6年(1873年)教員養成のため講習所を設置しました。これが現在の県立韮山高等学校の基礎となったのです。
ひょっとして世界遺産になるかも・・・の江川邸と韮山反射炉。再度見学されてはいかがでしょうか。

建築部  M・S
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